hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『道草』を読む(5) ──〈語り手〉の断言と撞着

f:id:hosoyaalonso:20231004195424j:image

健三自身の認識を考える前に、あらためて〈語り手〉について考えておこう。すべてはその叙述としてあらわれてくるからである。
少々面倒だが、お付き合い願いたい。ここで語り手に〈 〉を付けているのは、その発話がたんなる地の文というより、人称は無いながら特定の人物によるもの、と感じさせることの目印である。
 読み始めてまもなく、読者は〈語り手〉の物言いにしばしば断定的な調子が含まれ、物事を一方的に決めつけてしまおうとするかのような傾向があることに気づくのではないか。
 前にも引いた「一」の末尾の「細君も黙っている夫に対しては、用事の外決して口を利かない女であった。」や、「三」の始めの「そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。」といった断言に、すでに強すぎるものを感じた読者もいるだろう。さらにこの「三」の健三批判は次のように続くのである。比較検討のために、それをAとしよう。

A《けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞たる曠野(あらの)の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それが却って本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。》三

 断言の調子はきわだっており、読者の目をひきつける強烈な力がある。しかし、我々は「二十九」に至って、さらに次のような会話に出会うのである。

B《「学問ばかりして死んでしまっても人間は詰らないね」
「そんな事はありません」
彼の意味はついに青年に通じなかった。》二十九

 Aに言う健三の「索寞たる曠野の方角」とは、「読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考えたい問題を考えたり」(三)すること、すなわち彼にとっての「学問」の方向と重なっていたはずである。その「方角」が健三には「本来だとばかり」思えたのであり、「温かい人間の血を枯らしに行くのだ」とは「決して思はなかった」──Aでは〈語り手〉がそう断言していたのである。
 ところがBでは、健三自身がそうした「学問」の「方角」が実はむなしいものであり、それをつちかった「学校」や「図書館」は「牢獄のようなもの」(二十九)なのだと述べているのだ。さらにそこには、そうした「牢獄」生活を経なければ「今日の僕は決して世の中に存在していないんだから仕方がない」(同前)という屈折した自己認識までもが示されている。
これは、明らかにAの〈語り手〉の判断と矛盾する部分である。Bの地点から見ると、Aの「決して」という断言はいかにも不適切と見えてくるだろう。だとすれば、いったいどういうことになるのか。
 あるいは、こうした読みとりには反論もあるだろう。まず考えられるのは、作中のAとBには時間的なへだたりがあり、Aで批判されたような健三がやがて時を経てBのような認識に至ったのだとする見方である。主人公の自己認識の深まりを見る上で、これは共感をさそう解釈だといえるだろう。しかし、はたしてそれは成り立つのか。
Aの「決して思はなかった」という断言は、「この時はまだ」といった限定を寄せつけぬ強さをもっており、AからBに至る間の叙述にも、健三の「学問」に対する認識が変化したという指摘は見あたらないのである。
 さらに、もう一つ考えられる反論は、Aに言う「方角」をBの「学問」とは異なるのだするものである。すなわち、Aの「方角」とはたんなる「学問」をこえたものであり、漱石自身の場合でいえば後の創作活動へとつながる〈文学〉にあたるものであるから、健三がそれについて何ら疑いをもっていないのは当然だ、といった解釈である。
 しかし、これにもいささか無理があるだろう。漱石自身の場合にもあてはまるように、健三にとって「頭と活字との交渉」(三)とは「蝿の頭」(五十五)や「蟻の頭」(八十四)ほどの細字で「ノート」を書き続けることであり、それはまた彼の学者としての仕事――「学問」と重なっている。ましてや、Bの「学問」だけでなく、Aの「方角」までもが〈語り手〉によって「人間の血を枯らしに行く」ことだとされているのであり、そこに優劣をつけて見ようとすることは所詮無理となるのである。
 そこであらためて本文を見てみると、Aの引用部の直前はこうなっていたのだ。

《彼の頭と活字との交渉が複雑になればなる程、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気にその淋しさを感ずる場合さえあった。》三

 つまり、健三はここですでに「朧気に」ではあるが、自分の行く手にあらわれる「淋しさ」を感じているのだと述べられていたのである。それでは、なおさら〈語り手〉が健三の心事を「決して」と断言するのは無理と思えてくるだろう。
 では、どういうことになるのか。ここで、〈語り手〉の信頼度は大きく揺らいでいるというべきか。
これは、はなはだ厄介で、かつまた興味深い小説なのだ。我々の自己認識にも関わる、クリティカルな問題をはらんだ、言語による世界なのである。

#漱石 #道草 #語り手 #解釈

あの町と、あの時

f:id:hosoyaalonso:20230930231230j:image

    二十年前の九月、上海の小さなホテルに逗留していた。宵になってドアがノックされ、開けてみると、ホテルの主人が笑顔で立っていた。重ねた掌の上には月餅が一つ。礼を言って受取り、東の窓に寄って月を見た。中秋だったのか、と。
    仕事を持ち込み、一室にこもっていた日本人を、人の良さそうな主人はどう見ていたのか。小商人の店の並んだ裏町の空に浮かんだ月は、貧相な窓の男をどう見たのか。当てどもなく歩き、知り合った中国人青年は、疲れた日本人中年に何を見たのか。
    しきりに問いかけ、しばらく黙り、話し始めて、また黙り、具体をこえた理解を求めては、また黙る。
    そんな交わりをしていたのかもしれない、あの町と、あの時。
    二度と行かれぬだろう国を思う今宵、青いかさにつつまれた名古屋の月を見ながら。

 

【志賀直哉と小林秀雄 ── 正対された〈美〉】旧稿より

f:id:hosoyaalonso:20230917085231j:image

 蓮實重彦はこう述べていた。

《白い山羊髭をたくわえた晩年の肖像写真や広く流布された「小説の神様」神話にもかかわらず、志賀直哉の言葉には不気味な若さがみなぎっている。彼が漱石のような現代の古典とならずにいられるのも、理不尽なまでの無謀さがあるからだろう。実際、均衡を逸したその不透明感が読むものを惹きつけてやまない。未知の作家として志賀直哉を読みなおす贅沢を許してくれるのも、まさにそれなのだ。》(「志賀直哉全集内容見本」1998)

 しかしながら、かならずしもいわゆる“志賀直哉神話”がわれわれの読むことをさまたげてきたのだとはいえまい。むしろ、その強烈な作家像の衰退、あるいは黄昏とも見えるうすらぎこそが、読み手の欲求をそぎ、その嗜好を涸らすのである。
小説の神様」の作物と「志賀直哉その人」に対する長年にわたる讃辞の堆積は、読むことの欲望を刺激し、奔放でゆたかな恣意へと読み手を不断に駆り立ててもいたはずなのだ。問題はもはや、「現代の古典」であるか否かというところにはない。近代文学の“筆頭”となりおおせた漱石にしても、ひしめき合う読みの膨満、読解の混淆は、「現代の古典」という指標さえ何やら異様な発光体へと変えうるのである。
 「不気味な若さ」、「理不尽なまでの無謀さ」といった蓮實のこれ見よがしの言挙げが、かろうじて今ふたたび読み手を捕らえる奥の手となるのか。それは一見、澄明な志賀直哉像に対する果敢な挑戦と見えて、なお一呼吸おけば、かねてより指摘されてきた志賀作品の逸脱、不均衡、隠微に対する追認に過ぎないともいえるのである。
だが、それも、はや遅きに過ぎたのではあるまいか。泰然たる肖像や引き締まった文章といった定評あってこその“神殿破壊”である。もはや志賀直哉の「無謀さ」などどこに魅力があるのか、常軌を逸した「若さ」もさんざん見飽きてしまったわれわれではないか、といぶかる声が聞こえ、「未知」はついに「未知」のままで終わるのでは、との危惧もわくのである。
 あるいはまた、高橋英夫のごとく、元来志賀直哉は「マイナー・ポエット」だったのであり、いまや限られた良質な理解者によってつつましく読まれるに至ったのだというべきか。私はその志賀直哉=マイナー・ポエット説にしごく共感を覚える者であるが、それもまた大いなる志賀イメージがあってこその言い立てではなかったか、いまさら志賀直哉梶井基次郎の隣に据えてみても、棚からはみ出た季節はずれの瓢箪か朱欒のごとく不様に見えるのがおちではないか、等々案ずるのである。
 美にせよ、人間にせよ、あれほどまでに「本物」を志向した人物が、今まさにその真価を問われているのだ――私にはそう感じられてならないのである。それとも、すでにして志賀は定まった作家(「公定の作家」――小林秀雄が反発した言葉だ)となりおおせたというのか。ここ数年とみに志賀評価のゆらぎを感じ、実は一読者としてひそかに興奮をも覚えている私には、その神話化に大きく寄与したとされる小林秀雄の文章があらためて危機的なもの――まさしく〈批評〉として見えてくるのである。したり顔をしてその功罪を言う前に、それがはたして今も光を放つか否かをまず見定めることは、同様に小林秀雄というもう一人の“神話的存在”の真価を問い直す端緒ともなるだろう。

 小林秀雄には二本のまとまった志賀直哉論がある。言うまでもなく、その第一は「世の若く新しき人々へ」と付記された「志賀直哉」(1929昭和4.12『思想』)である。それは、はじめにポーを論じて批評の根本姿勢をうたい、「様々なる意匠」(1929昭和4.9『改造』)と並んで批評家小林の出発点に当たるとされた文章である。そこで志賀直哉はどのように語られたのか。
 小林がまず確認したのは、精妙な意識的創作家たるポーにとっては作品と読者との間にこそ肝心かつ計測困難な「審美の磁場」が存し、批評はそこで、「あらゆる存在に滲透して行く」論理とその映像・記号たる「最も豊富猥雑な」言葉とのかかわりの問題となるのだということである。したがって、いっさいの「批評の尺度」を信用せず、いかなる場合にも「言葉の陰翳」を忘れぬことこそが批評の姿勢とされるのだ。まさにそこから、「抽象を許さない作家」志賀直哉の「無限の陰翳」の受けとめが始まるのである。
 ひたすら「追憶」「挽歌」を歌ったチェーホフとは異なり、「最も個体的な自意識の最も個体的な行動」を描いた「ウルトラ・エゴイスト」たる志賀直哉の作品は、つねに「現在」にあって「卓れた静物画の様に孤立して見えるのだ」、と小林は言う。ここにも「ウルトラ・エゴイスト」、「原始性」といったこれ見よがしの言挙げがあるが、またそのかたわらでは作品の具体に触れた味読のかたちが示されていることも忘れてはなるまい。

《彼は胸をどき/\させて、
「これ何ぼかいな」と訊いて見た。婆さんは、
「ばうさんぢゃけえ、十銭にまけときやんしょう」と答えた。彼は息をはずませながら、
「そしたら、屹度誰にも売らんといて、つかあせえのう。直ぐ銭(ぜに)持って来やんすけえ」くどく、これを云って帰って行つた。
 間もなく、赤い顔をしてハア/\いいながら還って来ると、それを受け取って又走って帰って行った。》(「清兵衛と瓢箪」)

 いったい誰が、これを「美の一形態としての笑」と読み得ただろうか。ここでわれわれは、本文から切り取られ、しかつめらしい論述のただ中に置かれた尾道言葉や小僧の挙止のおかしみが、一瞬にして清新な〈美〉としてあらわれる現場を目にするのだ。「清兵衛は、瓢箪の様な曲線を描いて街を走るのだ」──志賀のテクストは、まさに小林によってあらたな輝きを与えられたのである。
 さらに、小林は、志賀の裡に「思索する事は行為する事で、行為する事は思索する事」という「実行家の魂」を言い当て、「比類なく繊鋭な神経」を発見する。その「見ようとはしないで見ている眼」、「見ようとすれば無駄なものを見て了う」眼力の強さは自明のものとして小林によって検証されるのだ。
 だが、こうした小林の評言は、かねてより広津和郎の「志賀直哉論」(1919大正8.4)とのかかわりが問題とされてきた。広津も志賀の裡に「妥協の出来ない眼」「何らの増減なしに見なければならないものをちゃんと見ている」「無意識的」な「心眼」を指摘していたはずである。では、広津と小林の違いはどこからくるのか──他でもない〈批評〉自体への希求の強弱、その切迫の有無からくるのだ、と私は思う。すなわち、小林のそれにおいては、志賀を明らめることが己れを明らめることへと直結し、志賀の「原始性」を云々することがそのまま己れの批評の「個体」を検証するのっぴきならぬ問題としてあらわれているのだ。
 山﨑正純は、この志賀論と「からくり」(1930昭和昭5.2)の対応関係に小林自身の「文学的課題」を見、以後の小林の創作を「自らの志賀論が提起する課題に答え続けた」ものとしている(「小林秀雄・小説の形而上学──初期創作をめぐって」『女子大文学国文篇』1996.3)。つまり山﨑は、志賀作品に見出された「現在性」や「肉体と言葉の生動する過程への肉迫」がその後の小林の「小説」へと持ち越されたのだと見るわけである。卓見であるが、私はむしろ、小林の批評自体の中でそれらはいったん受けとめられ、いわば〈読み〉という造形が行われているのではないか、と考えてみたいのだ。たとえば注目すべきは、「豊年虫(むし)」を論じた一節である。
 志賀直哉の「豊年虫」(1929昭和4.1)は、旅先で豊年虫(火取虫)の大発生に出会った経験を語る印象深い短篇である。それを小林は、志賀の「魂の形態」が「結晶化されてゐる」小品とまで言うのである。

《其処にあるものは一種の寂寞だが虚無ではない。一種の非情だが、氏の所謂「色」という肉感がこれを貫く。主人公の見物した田舎の夜の街の諸風景だが、主人公の姿は全く街の風景に没入している。彼はその街の諸風景を構成する一機構となる。彼は自然が幸福でも不幸でもない様に幸福でも不幸でもない、快活でも憂鬱でもない。彼の肉体は車にゆられて車夫とその密度を同じくし、車夫は停車場とその密度を同じくし、停車場は豊年虫とその密度を同じくする。主人公は床に寝そべって豊年虫の死んで行くのを眺めている、豊年虫が彼を眺めている様に。この時、眼を所有しているものは彼でもない、豊年虫でもない。》

 こうした言葉によってあらわされた情景が異様な充溢感をもって見えるのは、志賀の本文の手触りをもととしつつ、小林がその読みの触手をいわば「原始的」なエロスの次元にまで回帰させ、その眼の自由度を「無意識」の領野にまで後退させることを試みたからだとはいえないか。すなわち、たんにそれは小林が志賀の本文を読みとった報告である以上に〈読み〉として造形されたものと見えるのである。
 こうした陰翳をもった言葉の感受と表出が、小林の志賀直哉読みの生地をなしていることに気づくべきだろう。ここでも、「豊年虫」というテクストがあらたな輝きをもってわれわれに迫り、まさに〈読む〉ことの恣意のよろこびへとわれわれを解放する場となるのだ。さらにそれは一瞬、われわれの魂をも解放するかとまで思わせるのである。──「氏の魂は劇を知らない。氏の苦悩は樹木の生長する苦悩である」。
 第二の「志賀直哉論」(1938昭和13.2『改造』)で小林はまず、志賀直哉を再読して、以前と同様「自分のうちの何かを明らかにする為に」書くという要求を感じたのだと述べる。すなわち、己れの批評的姿勢の把握がここでも問題とされるのだ。中でも、再読した『和解』の同じ場所で感動し同じ場所で泣いたというのは、小林の読みの姿勢のいかにも分かりやすい表白であり、一つのさわりともなっている。
 「すこしも感傷的なものを交えず」しかも「強い感動に貫かれている」という小林の『和解』讃辞に抗して、異を唱えることはそう容易くはないだろう。むしろ、あらためて『和解』を前にして、小林の言うとおり同様の場所で感動し、同様の場所で泣けるものと知る時、われわれは自らを一人の読み手として喜びとともに見出すことができるのかも知れない。すなわち、小林秀雄の言葉とともに、『和解』がわれわれのもとに再びやって来るのである。
 小林は、「一般読者」の喜びとは「作中人物と実際に交際したい様な気持になる事」であると、しごくもっともな確認をする。さらに「僕等はいつも知らず識らず愛情によって相手をはっきり掴んでいる」のであって「観察だけでは足りない」のだ、とわれわれの人間把握のあり方を説く。それは他でもない、小林自身の読み方に重ねられるのである。そして小林は、時任謙作に目を向けるのだ。
 『暗夜行路』は時任謙作の「幸福の探究」であり、そこでは「幸福とは或る普遍的な力だという自覚に至るまで」が描かれ、「一般生活人の智慧」のうちにある「深い叡智」がつかまれたのだ、とするのである。すなわちここで、小説世界とは、誰でもが日々の生活の中でたくわえてきた「智慧」をもととし、人間に対する「愛情」や「尊敬」に動かされつつ、読み取られ理解されるべきものなのだ、というひろく「普通人一般の経験」におよぶ読みの姿勢が示されるのである。
 さらに、「「暗夜行路」は、傑れた恋愛小説である」という名高い言挙げが出現する。かくも狭隘な〈個〉の世界に「恋愛」を閉じこめるのは、いわばことさらな恋愛小説の否定であり、はたまた両性の相互性を無視した強弁とも見えようか。
 いや、ここでわれわれは、志賀を「それほどに傑れた作家であろうかと、私はつねに疑っていた」と言い張る正宗白鳥の『暗夜行路』論(1922大正11.8)を思い出してみるとよいだろう。時を経るにつれて「主人公に対する感じは稀薄になって、父親の心理がいろ/\想像される。自己革命などを企てゝいる青年よりも、突然の家庭の変事に接しても、家庭の革命をも自己革命をも企てないで、隠忍現状維持を企てた父親によって一層つよく心を動かされる」と語る白鳥のすぐれた批評は、まさに志賀の世界がそして小林の感受が、いわば自己に憑かれた者の場からこそ発したものだと教えているのだ。それはたんに「不気味な若さ」などに限定されぬ、たえず命の無謀をはらんで行きまどい、かつまた厳酷の現実のさなかでひとときの恍惚を覚えて憩うような、強靱にしてなお繊鋭な力の発現の場である。だが、力はやがて終息を迎え、沈静の時がやってくる。
 小林は志賀の世界に正対し問いかける。「あの瑞々しさが何処から来るか、あの叡智に充ちた眼差しの様な美しさは何処から来るか」、「衆人の為に論証しようと焦躁する現代の諸精神のうちにあつて、時任謙作の精神は、異様な孤独を守っている様に見えるが、実は異様でも孤独でもない。彼の精神は、たゞ健康にその実力を試しているに過ぎない」。
 かく問いかけられ答えられたものには、すでにたしかな輪郭がある。私はそこに、そのつど見出され、かたちづくられた〈読み〉の姿を見たいのだ。批評のただ中にあってそれはかたちと見え、読むことのただ中にあってそれは経験と見える。そこでわれわれは、作品と読者との間であの最も計測困難かつ重要とされた「審美の磁場」が、一瞬にして「無限の陰翳」を担い、さらにはもろもろの人間経験をたずさえて、喜びと美しさを感受する場へと変ずる様を見るのである。
 すなわち、こうした小林秀雄の批評によって造形された志賀直哉像は、われわれの眼前にくり返すかたちとして、さらに読むという経験の中につかまれた〈美〉として、なお光を放つものと私には見えるのである。

谷崎文学の価値とは

f:id:hosoyaalonso:20230917083344j:image

    谷崎潤一郎は、都市生活者の視点で現代の私たちの暮らしぶりを丁寧にとらえ、見事に表現した作家です。その文学には、特別な理念や深刻ぶった主題ではなく、日常の中で生きられた喜怒哀楽や、美、陶酔、欲望までが理解可能なかたちで確実に表現されています。
    10月からの新講座です。

佐々木英昭作『襖の向こうに──漱石二人芝居』試演

f:id:hosoyaalonso:20230903130429j:image

  伏見の清楚な町屋で、佐々木英昭作『襖の向こうに──漱石二人芝居』試演を観た。佐々木氏の脚本、二口大学、広田ゆうみ両氏の演技とも、期待にたがわぬ充実したものだった。

  漱石の『こころ』と『道草』、さらに鏡子夫人の『漱石の思い出』をもとに組み上げられた漱石解読の可視化ともいうべき試みで、作者佐々木氏の執拗な問いかけが、熱のこもった演技を通して伝わってきた。
    『こころ』の先生と『道草』の健三を合体させ、また前者のお嬢さんと後者の妻・お住に漱石夫人までを繋げた男女二人による対話劇には、オールビーの『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』を思い出させるほどの勢いがあった。
  その上で、漱石世界に恐るべき真剣さと凡常なる笑いの、類まれな共存を見ようとする私には、後者の要素をさらに、との思いも残ったのである。本公演では対話応答に〈間〉の導入を、と感想を述べた次第である。
  帰途、巨きな立待ち月が京の家並を照らしていた。

 

#漱石 #佐々木英昭 #オールビー

 

『道草』を読む(4) ──「昔の男」

f:id:hosoyaalonso:20230722194356j:image

    健三が出会った男は何者なのか。

    答えることは決して困難ではない。それはむしろ容易に名指すことができる相手なのである。

    だが、「一」では「その人」─「この男」─「その男」─「この男」─「その人」と呼称が揺らぎ、「二」になっても「帽子を被らない男」と意味ありげに呼ばれるのだ。「島田」という実名が出てくるのは「七」になってからであり、健三と男との関係の開示まで読者はさらに待たされるのである。

    作者漱石には、『こころ』「下」での「あなた」と「貴方」の無造作な混用の例もあり、用字等へのこだわりのなさの指摘も可能である。しかし、作品上でそれがどのような意味を持ち得るかは別問題であり、ここでは、島田の出現に対するとまどいが健三視点の語りであらわされていると見得るのである。

    あたかも健三自身が、その男を明瞭に呼ぶことを拒んでいるかのようなのだ。では、島田とは何者か。

    何のことはない、島田は健三の元の養父なのである。幼時の健三を養子とし、後に縁組解消をした相手だったのだ。しかし、そうした事実の開示は先延ばしとなり、元養父がここで「帽子を被らない男」などという謎めいた存在となっているのはなぜなのか。それこそが『道草』の核心に向かう問いとなるだろう。

    『道草』の自筆原稿を見ると、「昔の男(一)」と書かれた章題が消されて「一」となっている。まさに島田は「昔の男」(本文中にはない語である)として出現する存在なのである。

    何年かを経て故郷にもどった主人公の前に、親類縁者が現れてくる。当然のことである。が、それは時に「落付のない」健三の神経を刺激し、忘れていた過去を思い出させる。健三はそれらに抵抗もし、また同時に、牽引されもするのだ。

    だが、健三は、島田との再会を直ちに妻に告げようとはしないのである。

《しかし細君には何にも打ち明けなかった。機嫌のよくない時は、いくら話したい事があっても、細君に話さないのが彼の癖であった。細君も黙っている夫に対しては、用事の外決して口を利かない女であった。》一

    「一」の最後で付け加えるように語られたのは、対となった健三夫婦の人物像である。

《こうした無事の日が五日続いた後、六日目の朝になって帽子を被らない男は突然また根津権現の坂の蔭から現われて健三を脅やかした。それがこの前とほぼ同じ場所で、時間も殆どこの前と違わなかった。

    その時健三は相手の自分に近付くのを意識しつつ、何時もの通り器械のようにまた義務のように歩こうとした。けれども先方の態度は正反対であった。何人をも不安にしなければやまないほどな注意を双眼に集めて彼を凝視した。隙さえあれば彼に近付こうとするその人の心が曇どんよりした眸のうちにありありと読まれた。出来るだけ容赦なくその傍を通り抜けた健三の胸には変な予覚が起った。

「とてもこれだけでは済むまい」

    しかしその日家へ帰った時も、彼はついに帽子を被らない男の事を細君に話さずにしまった。》二

    こうして、「帽子を被らない男」の存在感はトラブルの予感とともに高まり、さらにまた、健三夫婦の間の齟齬という厄介な問題もあらわれてくるのだ。

    妻にも告げず、自身の心中でも元養父をどう捉えるかが定まらないまま、健三の「落付のない」生活は続いていく。では、彼自身はそれらをどう認識し、どう判断しようとしているのか。

    ますます我々は個別の生のただ中へと招かれていくのである。


#漱石 #道草 #邂逅 #過去 #夫婦

『道草』を読む(3) ──出会い

f:id:hosoyaalonso:20230721121830j:image

 そうして、最初の場面があらわれる。一人の男との邂逅である。それは、語ろうとされるものの重さを一挙に予感させる、全篇の白眉ともいうべき場面なのだ。

《ある日小雨が降った。その時彼は外套も雨具も着けずに、ただ傘を差しただけで、何時もの通りを本郷の方へ例刻に歩いて行った。すると車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。その人は根津権現の裏門の坂を上って、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十間位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の眼をわきへ外(そら)させたのである。》一

 ここで「思い懸けない人」、「その人」と呼ばれた男は、さらに、「この男」、「帽子を被らない男」と呼び名が移ろっていく(原文の表記は「其人」「此男」)。それは、主人公の困惑をあらわし、さらにその男との関係の厄介さをも感じさせる。まさに、健三は不意打ちを食らったのである。

《彼は知らん顔をしてその人の傍(そば)を通り抜けようとした。けれども彼にはもう一遍この男の眼鼻立を確かめる必要があった。それで御互が二、三間の距離に近づいた頃また眸(ひとみ)をその人の方角に向けた。すると先方ではもう疾くに彼の姿を凝っと見詰めていた。
 往来は静であった。二人の間にはただ細い雨の糸が絶間なく落ちているだけなので、御互が御互の顔を認めるには何の困難もなかった。健三はすぐ眼をそらしてまた真正面を向いたまま歩き出した。けれども相手は道端に立ち留まったなり、少しも足を運ぶ気色なく、じっと彼の通り過ぎるのを見送っていた。健三はその男の顔が彼の歩調につれて、少しずつ動いて回るのに気が着いた位であった。》

 異様な緊張感に満ちた情景である。小雨が降る中、静かな往来を行く主人公は予期せぬ男の出現に驚かされる。その張り詰めた気持ちが、読む者の心を直接動かすかのように伝わってくる。そこで読者はただちに、これは尋常でない思いをもって語られようとしている小説なのだ、と感得するのだ。
 遠方から帰って来てまだ落ち着かない最中に突如現れた人物、それは一体誰なのか。読者はまだ知らされていない。しかし、緊迫した叙述の力によって、我々は主人公健三の生のただ中へと招かれるのである。

《彼はこの男に何年会わなかったろう。彼がこの男と縁を切ったのは、彼がまだ廿歳になるかならない昔の事であった。それから今日までに十五、六年の月日が経っているが、その間彼らはついぞ一度も顔を合せた事がなかったのである。》

 健三は、いったい誰と出会ったのか。

#漱石 #道草 #邂逅 #過去