hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

【志賀直哉と小林秀雄 ── 正対された〈美〉】旧稿より

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 蓮實重彦はこう述べていた。

《白い山羊髭をたくわえた晩年の肖像写真や広く流布された「小説の神様」神話にもかかわらず、志賀直哉の言葉には不気味な若さがみなぎっている。彼が漱石のような現代の古典とならずにいられるのも、理不尽なまでの無謀さがあるからだろう。実際、均衡を逸したその不透明感が読むものを惹きつけてやまない。未知の作家として志賀直哉を読みなおす贅沢を許してくれるのも、まさにそれなのだ。》(「志賀直哉全集内容見本」1998)

 しかしながら、かならずしもいわゆる“志賀直哉神話”がわれわれの読むことをさまたげてきたのだとはいえまい。むしろ、その強烈な作家像の衰退、あるいは黄昏とも見えるうすらぎこそが、読み手の欲求をそぎ、その嗜好を涸らすのである。
小説の神様」の作物と「志賀直哉その人」に対する長年にわたる讃辞の堆積は、読むことの欲望を刺激し、奔放でゆたかな恣意へと読み手を不断に駆り立ててもいたはずなのだ。問題はもはや、「現代の古典」であるか否かというところにはない。近代文学の“筆頭”となりおおせた漱石にしても、ひしめき合う読みの膨満、読解の混淆は、「現代の古典」という指標さえ何やら異様な発光体へと変えうるのである。
 「不気味な若さ」、「理不尽なまでの無謀さ」といった蓮實のこれ見よがしの言挙げが、かろうじて今ふたたび読み手を捕らえる奥の手となるのか。それは一見、澄明な志賀直哉像に対する果敢な挑戦と見えて、なお一呼吸おけば、かねてより指摘されてきた志賀作品の逸脱、不均衡、隠微に対する追認に過ぎないともいえるのである。
だが、それも、はや遅きに過ぎたのではあるまいか。泰然たる肖像や引き締まった文章といった定評あってこその“神殿破壊”である。もはや志賀直哉の「無謀さ」などどこに魅力があるのか、常軌を逸した「若さ」もさんざん見飽きてしまったわれわれではないか、といぶかる声が聞こえ、「未知」はついに「未知」のままで終わるのでは、との危惧もわくのである。
 あるいはまた、高橋英夫のごとく、元来志賀直哉は「マイナー・ポエット」だったのであり、いまや限られた良質な理解者によってつつましく読まれるに至ったのだというべきか。私はその志賀直哉=マイナー・ポエット説にしごく共感を覚える者であるが、それもまた大いなる志賀イメージがあってこその言い立てではなかったか、いまさら志賀直哉梶井基次郎の隣に据えてみても、棚からはみ出た季節はずれの瓢箪か朱欒のごとく不様に見えるのがおちではないか、等々案ずるのである。
 美にせよ、人間にせよ、あれほどまでに「本物」を志向した人物が、今まさにその真価を問われているのだ――私にはそう感じられてならないのである。それとも、すでにして志賀は定まった作家(「公定の作家」――小林秀雄が反発した言葉だ)となりおおせたというのか。ここ数年とみに志賀評価のゆらぎを感じ、実は一読者としてひそかに興奮をも覚えている私には、その神話化に大きく寄与したとされる小林秀雄の文章があらためて危機的なもの――まさしく〈批評〉として見えてくるのである。したり顔をしてその功罪を言う前に、それがはたして今も光を放つか否かをまず見定めることは、同様に小林秀雄というもう一人の“神話的存在”の真価を問い直す端緒ともなるだろう。

 小林秀雄には二本のまとまった志賀直哉論がある。言うまでもなく、その第一は「世の若く新しき人々へ」と付記された「志賀直哉」(1929昭和4.12『思想』)である。それは、はじめにポーを論じて批評の根本姿勢をうたい、「様々なる意匠」(1929昭和4.9『改造』)と並んで批評家小林の出発点に当たるとされた文章である。そこで志賀直哉はどのように語られたのか。
 小林がまず確認したのは、精妙な意識的創作家たるポーにとっては作品と読者との間にこそ肝心かつ計測困難な「審美の磁場」が存し、批評はそこで、「あらゆる存在に滲透して行く」論理とその映像・記号たる「最も豊富猥雑な」言葉とのかかわりの問題となるのだということである。したがって、いっさいの「批評の尺度」を信用せず、いかなる場合にも「言葉の陰翳」を忘れぬことこそが批評の姿勢とされるのだ。まさにそこから、「抽象を許さない作家」志賀直哉の「無限の陰翳」の受けとめが始まるのである。
 ひたすら「追憶」「挽歌」を歌ったチェーホフとは異なり、「最も個体的な自意識の最も個体的な行動」を描いた「ウルトラ・エゴイスト」たる志賀直哉の作品は、つねに「現在」にあって「卓れた静物画の様に孤立して見えるのだ」、と小林は言う。ここにも「ウルトラ・エゴイスト」、「原始性」といったこれ見よがしの言挙げがあるが、またそのかたわらでは作品の具体に触れた味読のかたちが示されていることも忘れてはなるまい。

《彼は胸をどき/\させて、
「これ何ぼかいな」と訊いて見た。婆さんは、
「ばうさんぢゃけえ、十銭にまけときやんしょう」と答えた。彼は息をはずませながら、
「そしたら、屹度誰にも売らんといて、つかあせえのう。直ぐ銭(ぜに)持って来やんすけえ」くどく、これを云って帰って行つた。
 間もなく、赤い顔をしてハア/\いいながら還って来ると、それを受け取って又走って帰って行った。》(「清兵衛と瓢箪」)

 いったい誰が、これを「美の一形態としての笑」と読み得ただろうか。ここでわれわれは、本文から切り取られ、しかつめらしい論述のただ中に置かれた尾道言葉や小僧の挙止のおかしみが、一瞬にして清新な〈美〉としてあらわれる現場を目にするのだ。「清兵衛は、瓢箪の様な曲線を描いて街を走るのだ」──志賀のテクストは、まさに小林によってあらたな輝きを与えられたのである。
 さらに、小林は、志賀の裡に「思索する事は行為する事で、行為する事は思索する事」という「実行家の魂」を言い当て、「比類なく繊鋭な神経」を発見する。その「見ようとはしないで見ている眼」、「見ようとすれば無駄なものを見て了う」眼力の強さは自明のものとして小林によって検証されるのだ。
 だが、こうした小林の評言は、かねてより広津和郎の「志賀直哉論」(1919大正8.4)とのかかわりが問題とされてきた。広津も志賀の裡に「妥協の出来ない眼」「何らの増減なしに見なければならないものをちゃんと見ている」「無意識的」な「心眼」を指摘していたはずである。では、広津と小林の違いはどこからくるのか──他でもない〈批評〉自体への希求の強弱、その切迫の有無からくるのだ、と私は思う。すなわち、小林のそれにおいては、志賀を明らめることが己れを明らめることへと直結し、志賀の「原始性」を云々することがそのまま己れの批評の「個体」を検証するのっぴきならぬ問題としてあらわれているのだ。
 山﨑正純は、この志賀論と「からくり」(1930昭和昭5.2)の対応関係に小林自身の「文学的課題」を見、以後の小林の創作を「自らの志賀論が提起する課題に答え続けた」ものとしている(「小林秀雄・小説の形而上学──初期創作をめぐって」『女子大文学国文篇』1996.3)。つまり山﨑は、志賀作品に見出された「現在性」や「肉体と言葉の生動する過程への肉迫」がその後の小林の「小説」へと持ち越されたのだと見るわけである。卓見であるが、私はむしろ、小林の批評自体の中でそれらはいったん受けとめられ、いわば〈読み〉という造形が行われているのではないか、と考えてみたいのだ。たとえば注目すべきは、「豊年虫(むし)」を論じた一節である。
 志賀直哉の「豊年虫」(1929昭和4.1)は、旅先で豊年虫(火取虫)の大発生に出会った経験を語る印象深い短篇である。それを小林は、志賀の「魂の形態」が「結晶化されてゐる」小品とまで言うのである。

《其処にあるものは一種の寂寞だが虚無ではない。一種の非情だが、氏の所謂「色」という肉感がこれを貫く。主人公の見物した田舎の夜の街の諸風景だが、主人公の姿は全く街の風景に没入している。彼はその街の諸風景を構成する一機構となる。彼は自然が幸福でも不幸でもない様に幸福でも不幸でもない、快活でも憂鬱でもない。彼の肉体は車にゆられて車夫とその密度を同じくし、車夫は停車場とその密度を同じくし、停車場は豊年虫とその密度を同じくする。主人公は床に寝そべって豊年虫の死んで行くのを眺めている、豊年虫が彼を眺めている様に。この時、眼を所有しているものは彼でもない、豊年虫でもない。》

 こうした言葉によってあらわされた情景が異様な充溢感をもって見えるのは、志賀の本文の手触りをもととしつつ、小林がその読みの触手をいわば「原始的」なエロスの次元にまで回帰させ、その眼の自由度を「無意識」の領野にまで後退させることを試みたからだとはいえないか。すなわち、たんにそれは小林が志賀の本文を読みとった報告である以上に〈読み〉として造形されたものと見えるのである。
 こうした陰翳をもった言葉の感受と表出が、小林の志賀直哉読みの生地をなしていることに気づくべきだろう。ここでも、「豊年虫」というテクストがあらたな輝きをもってわれわれに迫り、まさに〈読む〉ことの恣意のよろこびへとわれわれを解放する場となるのだ。さらにそれは一瞬、われわれの魂をも解放するかとまで思わせるのである。──「氏の魂は劇を知らない。氏の苦悩は樹木の生長する苦悩である」。
 第二の「志賀直哉論」(1938昭和13.2『改造』)で小林はまず、志賀直哉を再読して、以前と同様「自分のうちの何かを明らかにする為に」書くという要求を感じたのだと述べる。すなわち、己れの批評的姿勢の把握がここでも問題とされるのだ。中でも、再読した『和解』の同じ場所で感動し同じ場所で泣いたというのは、小林の読みの姿勢のいかにも分かりやすい表白であり、一つのさわりともなっている。
 「すこしも感傷的なものを交えず」しかも「強い感動に貫かれている」という小林の『和解』讃辞に抗して、異を唱えることはそう容易くはないだろう。むしろ、あらためて『和解』を前にして、小林の言うとおり同様の場所で感動し、同様の場所で泣けるものと知る時、われわれは自らを一人の読み手として喜びとともに見出すことができるのかも知れない。すなわち、小林秀雄の言葉とともに、『和解』がわれわれのもとに再びやって来るのである。
 小林は、「一般読者」の喜びとは「作中人物と実際に交際したい様な気持になる事」であると、しごくもっともな確認をする。さらに「僕等はいつも知らず識らず愛情によって相手をはっきり掴んでいる」のであって「観察だけでは足りない」のだ、とわれわれの人間把握のあり方を説く。それは他でもない、小林自身の読み方に重ねられるのである。そして小林は、時任謙作に目を向けるのだ。
 『暗夜行路』は時任謙作の「幸福の探究」であり、そこでは「幸福とは或る普遍的な力だという自覚に至るまで」が描かれ、「一般生活人の智慧」のうちにある「深い叡智」がつかまれたのだ、とするのである。すなわちここで、小説世界とは、誰でもが日々の生活の中でたくわえてきた「智慧」をもととし、人間に対する「愛情」や「尊敬」に動かされつつ、読み取られ理解されるべきものなのだ、というひろく「普通人一般の経験」におよぶ読みの姿勢が示されるのである。
 さらに、「「暗夜行路」は、傑れた恋愛小説である」という名高い言挙げが出現する。かくも狭隘な〈個〉の世界に「恋愛」を閉じこめるのは、いわばことさらな恋愛小説の否定であり、はたまた両性の相互性を無視した強弁とも見えようか。
 いや、ここでわれわれは、志賀を「それほどに傑れた作家であろうかと、私はつねに疑っていた」と言い張る正宗白鳥の『暗夜行路』論(1922大正11.8)を思い出してみるとよいだろう。時を経るにつれて「主人公に対する感じは稀薄になって、父親の心理がいろ/\想像される。自己革命などを企てゝいる青年よりも、突然の家庭の変事に接しても、家庭の革命をも自己革命をも企てないで、隠忍現状維持を企てた父親によって一層つよく心を動かされる」と語る白鳥のすぐれた批評は、まさに志賀の世界がそして小林の感受が、いわば自己に憑かれた者の場からこそ発したものだと教えているのだ。それはたんに「不気味な若さ」などに限定されぬ、たえず命の無謀をはらんで行きまどい、かつまた厳酷の現実のさなかでひとときの恍惚を覚えて憩うような、強靱にしてなお繊鋭な力の発現の場である。だが、力はやがて終息を迎え、沈静の時がやってくる。
 小林は志賀の世界に正対し問いかける。「あの瑞々しさが何処から来るか、あの叡智に充ちた眼差しの様な美しさは何処から来るか」、「衆人の為に論証しようと焦躁する現代の諸精神のうちにあつて、時任謙作の精神は、異様な孤独を守っている様に見えるが、実は異様でも孤独でもない。彼の精神は、たゞ健康にその実力を試しているに過ぎない」。
 かく問いかけられ答えられたものには、すでにたしかな輪郭がある。私はそこに、そのつど見出され、かたちづくられた〈読み〉の姿を見たいのだ。批評のただ中にあってそれはかたちと見え、読むことのただ中にあってそれは経験と見える。そこでわれわれは、作品と読者との間であの最も計測困難かつ重要とされた「審美の磁場」が、一瞬にして「無限の陰翳」を担い、さらにはもろもろの人間経験をたずさえて、喜びと美しさを感受する場へと変ずる様を見るのである。
 すなわち、こうした小林秀雄の批評によって造形された志賀直哉像は、われわれの眼前にくり返すかたちとして、さらに読むという経験の中につかまれた〈美〉として、なお光を放つものと私には見えるのである。