hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『道草』を読む(7)──「迂闊な健三」

f:id:hosoyaalonso:20231004200027j:image

 生のただ中における認識とはいわば決断なのである。特に人事にかかわる判断は、様々な可能性の中から掴み取られ、直ちに行動へとつながる動きともなるのだ。
〈語り手〉の高飛車はそれとして、一方、主人公健三の認識はどうなのか。

《心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞たる曠野(あらの)の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それが却って本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。》三

《彼の頭と活字との交渉が複雑になればなる程、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気にその淋しさを感ずる場合さえあった。》三

 かく語られてきたように、いかにも偏屈な健三は、論理で現実を割り切ろうとする「執拗(しつおう)」(六十五)な男と見えるのである。しかしまた同時に、健三は「迂闊な彼」(五十七、五十八、五十九)としても語られていることを見落としてはならない。
 健三は「世事に疎い」(七十四)、経済的感覚にも欠けた人間なのだとされる。「頭と活字との交渉」に生きる健三は世間を知らず、家計を理解せず(二十)、細君と子らのつながりを知らず、「はなはだ実用に遠い生れ付」(九十二)である自分を「如何にも気の利かない鈍物」(同前)と見る周囲に反撥するが、「役に立つ」(同前)父や兄を持つ細君からも軽んじられ、細君との口論においても「空っぽう」(九十八)の理屈をふりまわすものとして批判をあびるのである。これらの健三のすがたは、御夏(姉)の愚かさや比田(姉の夫)の利己的言動、御住の「朝寝」などと同じく、苦い滑稽さをともなった要素として作中を彩っている。
 しかし、健三の〈迂闊さ〉は、さらに島田との交渉において、たんなる滑稽味をこえたものとしてくっきりとあらわれて来ることに注意しなければならない。
島田の来訪を受けた後、健三は「一体何の為に来たのだろう。これじゃ他(ひと)を厭がらせに来るのと同じ事だ。あれで向(むこう)は面白いのだろうか」(十七)と考え込む。また、「しかし金は始めから断っちまったんだから、構わないさ」と言うが、細君から「だってこれから先何を云い出さないとも限らないわ」と指摘されて急に「不安」を感じる(十九)のである。
 細君にははじめから、島田との交渉の再開が結局は金の無心に至るだろうとのもっともな危惧があり、それは読者にも容易に伝わるのであるが、あたかも健三にはこうした平凡な世間智や人間理解が欠けているように見えるのだ。
 健三は島田との交際を「厭で厭で堪らない」(十四)と意識しつつも断ることができない。そして、それを「正しい方法」(十一)「正しい方」(十三)といった言葉でとらえようとするのだが、その「腹の中」は「まるで細君の胸に映ら」(十四)ず、読者にもまた伝わりがたいのである。
 なかでも、島田から復籍を請われたと聞いた時の健三の反応は、きわだって見えるだろう。

《「少し変ですねえ」
 健三にはどう考えても変としか思われなかった。
「変だよ」
 兄も同じ意見を言葉にあらわした。
「どうせ変にや違ない、何しろ六十以上になって、少しやきが廻ってるからね」
「欲でやきが廻りやしないか」
比田も兄も可笑しそうに笑ったが、健三は独りその仲間へ入る事が出来なかった。彼は何時迄も変だと思う気分に制せられていた。彼の頭から判断すると、そんな事は到底ありよう筈がなかった。彼は最初に吉田が来た時の談話を思い出した。次に吉田と島田が一所に来た時の光景を思い出した。最後に彼の留守に旅先から帰ったと云って、島田が独りで訪ねて来た時の言葉を思い出した。然しどこをどう思い出しても、そこからそんな結果が生まれて来ようとは考えられなかった。
「どうしても変ですね」
 彼は自分の為に同じ言葉をもう一度繰り返して見た。》二十七

 ここに強くあらわれているのは、島田の非常識というよりもむしろ健三の非常識である。それは、健三の〈迂闊さ〉すなわち人間理解につきまとう遅延をあらわすものであり、同時にまた、島田との関係における健三の強い〈こだわり〉のかたちを示しているのだ。
 「正しい方法」という思いと同様、それは他に対しては容易に説明しがたいものであり、「不合理な事の嫌(きらい)な」(七十九)はずの健三にも、どうやら「論理」(十)による把握の及ばぬもののように見えるのである。
 健三のめざす「正しい方法」あるいは「正しい方」については、従来、過剰なまでに精神的な価値づけや思想的な意味づけがあたえられて来た。いわゆる漱石神話や文豪漱石イメージの充填である。しかし、ここで試みたいのは、そうした解釈の欲求の高まりを、もう一度作品のただ中にもどすことである。
 我々はまず何より、それらの語、「正しい方法」あるいは「正しい方」が作中で、健三によってもさらには〈語り手〉によっても十分な意味づけを与えられていない、ということにあらためて気づかねばならないのだ。
いわば、「正しい方法」とは何とも言いようのない思いとして置かれているのであり、その「正しさ」は、ひたすら〈語りがたいもの〉としてあらわれているのだ。そこに高尚な作者の思索のあとを求める前に、読者として我々になすべきことは何か。
 まず見るべきは、そうした思念が健三の中でどのようにあらわれたのかということである。それは他でもない、何より島田によってもたらされたものなのだ。
 冒頭の島田との再会は、すでに述べたとおり白眉というべき場面であるが、そこで強烈に印象づけられるのは島田の唐突な出現であり、いわば、その強い「眼付」(一)や「異様の瞳」(十三)なのである。それは何より健三自身の受けた衝撃を示し、健三にとって島田という存在の重さや深刻さを語っているのだ。それは、冒頭の〈語り手〉による健三批判に続く部分なのである。
 まさに、『道草』は〈島田という驚き〉から始まる世界なのだ。「その人」「この男」とめまぐるしく変化する島田の呼称も、たんなる言い換えの次元をこえて健三の島田に対する感受の振幅の大きさを語っていると見えるのである。
 ではいったい、健三にとって島田とは何であったのか。島田は、なぜ、かくも強い驚きとともに見いだされねばならなかったのだろうか。

#漱石 #道草 #健三 #迂闊 #島田