hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(33)── 一時間後(1) これで終わるのか

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【『嘔吐』を読む(33)── 一時間後(1) これで終わるのか】
 ブーヴィル滞在最後の日、図書館で独学者が少年に性的な接触をして発覚する現場にロカンタンは居合わせる。独学者が叱責され、殴打されるのを見て怒ったロカンタンは警備員を制止し、さらに逃げるように去った独学者の後を追って、町中を探し回ったのだという。パリに向けて発つ数時間前に、ロカンタンの心は大きく揺れたのである。
 で、その後どうなったのか。
 最終章は「一時間後」と銘打たれているが、独学者の行方は不明のまま、ロカンタンの“捜索”の様も書かれてはいない。ただ、ロカンタンの想像する「独学者の意識」が述べられるだけなのだ。すなわち、不幸な同性愛嗜好者と迷える若き知識人の真の出会い、といったドラマ展開への読者の期待は、ここでみごと肩透かしを食うのである。では、小説『嘔吐』は、はたしてどのような〈終り〉を見せるのか。
 まずは、「一時間後」の書き出しを見てみよう。

《空は暗く、陽は沈む。二時間後には汽車が出る。私はこれを最後の見納めにと公園を横切り、ブーリベ街を散歩する。ここがブーリベ街だということを私は知っているが、見憶えがない。普段ならこの道に足を踏み入れると、良識の深い厚みを横切るような気がしたものだ。鈍重で角張ったブーリベ街は、不格好そのものの生真面目な雰囲気と、真ん中が盛り上がったアスファルトの車道のために、豊かな集落を横切る国道に似ていた。一キロ以上ものあいだ、両側を三階建ての大きな家に囲まれて続く国道である。私はブーリベ街を農夫通りと呼んでいたが、この道が私を喜ばせたのは、商業港にとってまるで場違いで、型破りのものだったからだ。今日も家々はそこにあるが、いつもの鄙びた感じは失われていた。それはただ、建物である、というだけだった。〔中略〕ブーヴィルは沈黙している。まだ二時間もこの町にいなければならないのが奇妙に思われるくらいに、町はもう私に構おうとせず、家具を片づけてその上に覆いをかけてしまった。こうして今夜か明日か、新たにここへやって来る人たちのために、覆いをはずして新鮮そのものの家具を見せようというのだ。私は今ほど忘れられたと感じたことはない。》

 ちょっと待ってくれ、ロカンタン君。君は、鼻血を出しながら去って行った独学者を「見つけるために、町中を走り回った」のではなかったか。その興奮はどこへ行ったのか。もちろん、鈴木氏が「走り回る」とした parcourir は「歩き回る」とも解せるにしても、さんざん探し回った思いのたかまりはすでに消えてしまったのか。
 「独学者」と小馬鹿にし、「田舎のヒューマニスト」の感動体験の披瀝には辟易して席を立つほどだったのが、ここで一転し、警備員の暴行を目にして「怒りでわなわな震え」たというほどの感情のたかぶりはどうなったのか。

《これを最後の見納めにと公園を横切り、ブーリベ街を散歩する。》

 一時間近く探し回ったはずの町の様相は一切語られず、「ブルジョワ都市」と乱暴にレッテル貼りをしたはずの町の街路を、「良識の深い厚みを横切る」などと持ち上げて詳しく描写し、最後の「散歩」proméne と洒落込んだのによそよそしくされたと不満を漏らした君は、「今ほど忘れられたと感じたことはない」と独語し、さらに、したり顔で言うのだ。

《私は二つの町のあいだにいるのだ。一方はまだ私を知らず、他方はもう私のことを憶えていない町である。》

 ブーヴィル滞在も、パリ居住も自由な若者、独身の金利生活者の君は、こうしてまた図書館の「仏文学」の棚に戻って、次の“おフランス”好きの読者を待つだけなのか。読者が腑に落ちないのは、所詮原文の理解及ばず、文学的素養の不十分ゆえ等と思わせて。
 せめて、サルトルが批評の的としたモーリヤックのヒロイン、別れ際に「あなたの目に不安の色を見たかったから」と口走った、あのテレーズ(『テレーズ・デスケイルゥ』)のごとき毒舌でもあれば、しばしは腹くちくもなるだろうが、などと思いつつ私は最終章を読んだのだよ。
 だが、ロカンタン君、実は私はすでに次のような読解の〈かたむき〉(読みの方向)を身につけていたのだ。

《「独学者とは、私だったのだ。」
 もしも、この一文があれば、『嘔吐』ははるかに引き締まった小説となったのでは、というのが私の読みである。》

 だとすれば、君の独学者退散時の興奮とその後の鎮静はどう読み取れるのか。私は、そこに〈弱者〉の意識を見たいと思うのだ。
 前回書いたことをさらに繰り返そう。

《ロカンタンにとって独学者とは、偽物ではあるが否定できない〈もう一人の自分〉としてあったのではないかというのが、私の読み取りである。裏返しの自分、あるいは、影といってもいい。それは〈まがいもの〉でありながら、より〈根源的な自分〉につうじるものでもあるのだ。
 離れて見れば、独学者の孤独は、ロカンタンのそれと相似である。教養は似て非なるようだが、“生息地”はつながり、独学者はその片隅の愚かしい修行者である。だとすればまた、ロカンタンを飾る教養も、どこかあやしげにさえ見えてくるだろう。いともあっけなくロルボン氏を捨てた後は、特に。》

 すなわち、君と独学者は、パリから来た知識人と田舎町の本好きとに二分することも可能だが、同時に、どちらも孤独な独身の好事家(オタク)であり、全く無力な存在なのだ。たとえどれだけ精神世界を深めようと、社会的には問題とされぬ身であることを君たちはよく知っているはずなのである。
 すでに、独学者は自分の無力さ、無意味さを痛感していた。その上、欧州では強い指弾の的となる同性愛までもかかえていたというのだ。片や君も、知識と自負で身構えてはいるが、やはり無意味さと弱さをかかえていたのだ。そんな君は〈強者〉である(と君が思う)ブルジョワ名士連を忌み嫌う。傲慢で鈍感な彼らの自己肯定が我慢できないのである。だが、それにとどまらず、君の反ブルジョワは一般市民にまで広がる。それは何より、自分が市民階級から見ても〈弱者〉でしかないからである。すなわち、君のブルジョワ批判は、反社会、反良識、反俗、反ヒューマニズムにまで肥大していったのだ。
 そんな君が、目の前で独学者が社会的な失態を犯し辱められるのを、我がことのように見たのだ。俗世間に圧迫される孤独な弱者として、独学者もアシル氏も自分と同じ側にいることを知り、自分の弱さを痛切に感じたのだろう。
 だが、その後の君は、はたと独学者を追うのをやめ、ただその「意識」を想像の中で感受したのだというのである。そこに私は、抑えようのない君自身の不安を感じるのだ。

《一つの顔の意識もある。すっかり血だらけになったその顔は、のろのろと過ぎ、大きな目が涙を流している。その顔は、壁のあいだにはない。それはどこにもない。顔は消える。血まみれの頭で前屈みになった一つの身体が、顔に取って代わり、それがゆっくりした足どりで遠ざかって行く。ひと足ごとに止まりそうに見えるが、決して止まらない。暗い通りをのろのろと歩くこの身体についての意識がある。身体は歩く。しかし遠ざからない。暗い通りも終わらない。それは無のなかに失われる。その通りは壁のあいだにはない。それはどこにもない。そして抑えつけられたような声の意識があり、その声が言う、「独学者は町をさまよっている」と。
 同じ町の、この無気力な壁のあいだをさまよっているのではない。独学者は、彼のことを忘れない凶暴な町のなかを歩いているのだ。彼のことを考える人たちがいる。コルシカ人、肥った女。おそらく、町のすべての人がそうだろう。彼はまだその自我を失っていないし、失うことができない、この責めさいなまれた自我、血まみれになりながら、彼らがとどめを刺そうとしなかった自我を。唇や鼻孔が痛む。彼は「痛い」と考える。彼は歩く、歩かなければならない。ちょっとでも立ち止まれば、図書館の高い壁がとつぜんまわりにそびえ立って、彼を閉じこめるだろう。コルシカ人が彼の横にあらわれて、あらゆる細部に至るまでまったく同じような光景がふたたび始まるだろう。そして女がせせら笑うだろう、「監獄送りにすればいいんだ、こういう汚らしい奴は」。彼は歩く。自分の家には帰りたくない。コルシカ人が部屋で待っている、それから女と、二人の少年も。「違うと言っても無駄だぞ、見たんだから」。そして同じ場面が繰り返されるだろう。彼は考える、「ああ、もしあんなことをやらなかったら、もしやる前に戻れるのだったら、もしあれが真実でなかったら!」
 不安な顔が、意識の前を何度も通り過ぎる。「ひょっとして、彼は自殺するんじゃないか」。とんでもない。優しい、追いつめられたこの魂が、死を考えることはあり得ない。》

 「死を考えることはあり得ない」──なぜそう言いきれるのか。ここでは、実際の人間である独学者ではなく、想像裡でアバターのように動く独学者を思考しているのだ。想像は安全圏にある。しかし、君も言うとおり、意識は「決して自分を忘れることがない」のである。
 と、ここまで書いてきて、私は何やらいたたまれなくなってきたのだ(またしても)。
 暇にまかせ、想像圏であれこれと思い、勝手な思考を繰り返している君、それはまさに、われわれ老人にも通じる姿ではないか。ままならぬ浮世のただ中にあって、弱者たる自分をかかえ、苛立ちと諦めの中で〈反俗〉のポーズを決めようとしている者、それは他ならぬ自分ではないか、と思えてきたのだ。
 もちろん、両者の違いも明らかである。前者は可能性に満ち、後者は衰退の途にある。さらには、前者の未熟ゆえの無様と無謀に対し、後者には経験過多による錯乱と失態があるのだ。しかしなお、両者は、浮世の生の不如意を身をもって晒した弱者にして〈自由〉の士、かのドン・キホーテに憧れるのだ。憧憬とともに、前者には危険をもたらし、後者には自嘲をもたらすあの勇猛なる愚者の姿に。
 では、ここで君は想像裡の独学者をさえ見限って、さらに、どこへ向かおうというのか。

《不安な顔が、意識の前を何度も通り過ぎる。……とんでもない。優しい、追いつめられたこの魂が、死を考えることはあり得ない。》

 さてさて、いかにも、君はまだ若いのだ。

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