hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

ゴダールが死んだ。

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気狂いピエロ』の巻頭で、風呂に浸かった唇のあつい男が、本を読みはじめる。

「五十歳を過ぎたベラスケスはもはや事物を描こうとはしなかった。黄昏の光と共に事物の周辺をさまよい、物の影とおもてに息づく多彩な動機を、沈黙の交響楽の見えない核とした 。

彼がひたすら描いたのは、互いに浸透し合う形と色の神秘的な交感の、人知れぬ展開と継続だった。いかなる中止も飛躍も、告発も断続もない動きだった。

空間が支配する。大気の波が物のおもてを滑り、事物を定義し形づくる光芒に滲み、到る所にその芳香とこだまを拡散して、無限の光の塵となって四方に拡がって行く。

彼が生きた世界は暗かった。頽廃の王、病める子供、白痴に小人、廃失者達。道化は貴公子然と振舞い、無法者どもを笑わせていた。
宮廷は作法と詐術と虚言に溢れ、告白や後悔で縛られていた。盗み聴きや火刑、沈黙に。

ノスタルジックな魂のさまよい、醜さも悲しみもなく、惨めな少年期の残酷な思い出もない。

ベラスケスは夕べの画家だ。

ひろがりと沈黙の画家なのだ。」(エリー・フォール)

ジャン=ポール・ベルモンドの読むベラスケス論、そのしゃがれ声の荒っぽい読書が、暗闇の中で、不用意な我々の胸ぐらを掴んだのだ。

それから半世紀、彼は去った。

彼がひたすら描いたのは、互いに並べられ、せめぎ合う形と動き、言葉と楽曲の混淆、その目眩く新鮮な展開だった。中止と飛躍、告発と断続とに満ちた。

巻末のランボーの詩句が響く。また、何度でも、と。

ーまた見つかった!
ー何が?
ー永遠
ーそれは太陽と消えた  海だ

合掌。