hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(32)──最後の水曜日 「独学者を見つけるために、私は町中を走り回った」

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 ブーヴィル最後の日の記述は、「独学者を見つけるために、私は町中を走り回った。」という一文で始まる。一体、何があったのか。
 独学者が図書館で騒ぎを起こしたのである。彼は閲覧室で少年たちに話しかけ、さらには一人の少年の手を愛撫したのだ。
 ロカンタン他、何人もが見ている前だったが、独学者は自制を失ってしまう。警備員のコルシカ人がそれを見咎め、独学者の顔を二発殴る。ロカンタンがコルシカ人を力で制止するが、鼻血を出した独学者は、周囲の罵りを受けながら図書館を去る。血を滴らせ、ロカンタンの気遣いも辞退し、独学者は、独り夕方の町に消えるのである。本好きの孤独なおじさんには、少年愛の性癖があったのだというわけだ。
 『嘔吐』には、人や町、街路や建物、海と空などに加えて、グロテスクなもの、おぞましいものが種々はめ込まれている。暗い夜のひろがり、蟹などの甲殻類(これは作者自身のオブセッションという)、プラタナスの根、さらに繁茂し覆いつくす植物、そして様々な性的なイメージが混入されているのだ。それらは、お上品ぶった世界に向けた作者のいささか悪趣味な抵抗ともとれるが、なかなかの迫力である。
 そんな中で、食堂のおかみとの物々交換のような性交や、独学者の惨めでひそかな同性愛は、むしろそっけなく、つつましやかとも見えるのだが、やはり読み手の耳目を引くのだ。
 図書館で見かける、中年のセリバテールのおじさんが、教養のための読書とヒューマニズムと、わずかの交友、政治的関心などの他に、同性への嗜好も隠していたという設定は、分かりやすく、月並みでさえある。それはまさにロカンタンとはかけ離れた、偽物臭い亜インテリなのだというわけだろう。ロカンタン自身、独学者に近寄られて辟易し、いやいや付き合った「ボタネ軒」では、とうとうこらえきれなくなって癇癪を起したというのである。その結果、その後はもう独学者の話題は一切なくなると思われもしたのだ。
 それが、ブーヴィル滞在の最後の日になって再登場し、強烈な関心の的となるのである。なぜか。

《十五分ほど過ぎた。独学者はまたひそひそと囁き始めた。私にはもう彼を眺める勇気がなかったが、その若々しく優しい顔つきと、独学者の知らないうちに彼の上にのしかかってくる重苦しい何人もの視線は、充分に想像できた。彼の笑い声が聞こえたときもあった。フルートのような、いたずらっ子のような微かな笑い声だ。それが私の胸を締めつけた。薄汚れた腕白どもが、一匹の猫を溺れ死にさせようとしているように思われたのだ。それから不意に囁きが止まった。この沈黙は悲劇的なものに思われた。これは最期であり、死刑の執行だった。私は新聞の上に顔を伏せて、読んでいる振りをした。しかし読んではいなかった。この沈黙のなかで、自分の正面に起こっていることを見ようと、私は眉を吊り上げ、できるだけ上目遣いをした。少し頭をめぐらせると、ようやく目の端に何かが見えた。それは手だった。さっき机に沿って滑って行った白い小さな手である。今やそれはくつろいで、優しく、官能的に、仰向けに横たわっていた。まるで太陽に身を温めている水浴する女のしどけない裸体のようだ。それに褐色の毛むくじゃらな物が、ためらいながら近づいた。タバコで黄色くなった太い指だった。その指はこの手のすぐそばで、男の性器のような不格好さを備えていた。指は一瞬止まり、固くなり、ひ弱な手のひらに狙いを定め、それからとつぜん、恐る恐るそれを愛撫し始めた。私は驚かなかった。むしろ、独学者に腹を立てていた。いったい彼は自制できなかったのか、馬鹿め。自分の冒している危険が理解できないのか? 彼にはたった一つのチャンス、わずかなチャンスしか残っていない。両手を机の上にある本の両側におき、ただひたすらじっとしていれば、ことによると今回だけは運命を免れるかもしれない。しかし私は、彼がこのチャンスを逃すことになるのを知っていた。指はゆっくりと、控え目に、動かない肉の上に進み、敢えてのしかかることはせずに、ごく軽くそれに触れていた。まるで自分の醜さを意識しているようだった。私はだしぬけに顔を上げた。この執拗な小さい往復運動が、もはや見るに耐えなかったのだ。私は独学者の目を求め、彼に警告するために強く咳払いをした。しかし彼は瞼を閉じて、微笑んでいた。彼のもう一方の手は机の下に消えていた。少年たちはもう笑っておらず、真っ青になっていた。》

 かなりの迫力で迫ってくる部分である。性欲の破壊的な力、周囲に与える衝撃、市民による断罪、それらを眼前に見たロカンタンは興奮し、独学者を痛めつけようとするコルシカ人の首根っこをつるし上げさえするのだ。すなわち、ここで急遽、それまで辟易していた男の側に付こうとするのである。

《独学者を見つけるために、私は町中を走り回った。》

 具体的な描写は何もないが、次の最終章「一時間後」に移る前、つまり一時間ロカンタンは独学者を追ったのだ。なぜ独学者に対する態度が急変したのか。ロカンタンは何を思ったのか。
 早口に言ってしまえば、ロカンタンにとって独学者とは、偽物ではあるが否定できない〈もう一人の自分〉としてあったのではないかというのが、私の読み取りである。裏返しの自分、あるいは、影といってもいい。それは〈まがいもの〉でありながら、より〈根源的な自分〉につうじるものでもあるのだ。
 離れて見れば、独学者の孤独は、ロカンタンのそれと相似である。教養は似て非なるようだが、“生息地”はつながり、独学者はその片隅の愚かしい修行者である。だとすればまた、ロカンタンを飾る教養も、どこかあやしげにさえ見えてくるだろう。いともあっけなくロルボン氏を捨てた後は、特に。
 そう、ロカンタンも本を読んできた者であり、この世界にありながら〈いまここ〉を離れんとした一人の独学者でもあったのだ。だが、一方の「独学者」は、ここで敗残者となるのである。
 だとすれば、「独学者」とは、いわば知識人のダミーではなかったのか。
 ひたすら読み、自身の裡に別種の時空を抱え込んだ者、性欲という根源までもが露出した中年男、それが、読書人ロカンタンから「ブルジョワ」と一括して罵られた市民階級から忌み嫌われ、袋叩きにされるのである。独学者は──さらには心優しきアシル氏もまた、その余計者としての敗残の度合いを、生々しく露呈する木偶ではなかったのか。現実世界の中では、図書館というアジールでも、同好の士へのささやかな接近の場でも、いともたやすく酷薄な惨事や流血は起こるのだ。

「独学者とは、私だったのだ。」

 もしも、この一文があれば、『嘔吐』ははるかに引き締まった小説となったのでは、というのが私の読みである。
 さらにいえば、反ブルジョワ、反世間、すなわち〈反俗〉こそが、若いロカンタンのオブセッションであり、また、敗残への原動力でもあったはずなのだ。その抜きがたい反ヒューマニズムの姿勢も、反俗に通じるものとすれば理解できるだろう。それゆえ、哀れなヒューマニストであり、まがいもののダミーに過ぎない中年独学者は、若き反俗の士に唾棄されようとしたのだ、というわけになる。
 だが、土壇場になって、その若きヒーローは鎧を脱ぎ、剣を捨て、さんざん辛酸をなめてきた先輩の後を追おうとしたのか。それこそヒューマニズムではないか、といぶかしくも思わせるのだ。で、どうなるのか。
 「私は町中を走り回った」で始まった「水曜日」は、その捜索の具体を一切述べることなく、その前の独学者が去った時点で止められ、終わっている。こうして、敗残者はあっけなく、痛切な後姿となって消えていくのである。

《彼は繰り返した。
 「ほっといて下さい、お願いです、ほっといて下さい」
 彼は今にも神経の発作を起こしそうな様子だった。私は遠ざかって行く彼を見送った。夕陽が一時、前屈みになった彼の背を照らした。それから彼の姿は消えた。入口のドアの框には、星のような形の一滴の血が残っていた。》

 そして次が、最終章「一時間後」となるのだ。

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