hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(34)──一時間後(2)はたして「アウトサイダー」なのか

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《市電の二階に若い女が吹きさらしのなかに坐っている。ドレスがまくれ、風をはらむ。雑踏した人と車の流れが、私と女とを遮る。市電は走り去って、悪夢のように消える。
 往来する人でいっぱいの街路、まかせきったように軽やかに揺れうごくドレス、スカートがまくれる。まくれながら、しかもまくれないドレスまたドレス。
 店先の細長い鏡に、私は近づく自分の顔を見る。蒼ざめて、瞳が重たるい。私がほしいのは一人の女ではない。すべての女がほしいのだ。私は、一人また一人と、自分の周囲にそれを求める。……》福田恆存・中村保男訳(一部改変)

 ベストセラーとなった『アウトサイダー』1956 の冒頭で、コリン・ウィルソンが掲げたアンリ・バルビュス『地獄』Ⅵの一節である。英訳を介したので軽やかになった分、巻頭にふさわしくも見えるだろう。
 ウィルソンは、『地獄』L'Enfer 1908 と『嘔吐』La Nausée 1938 を「アウトサイダー」を描いた小説として並べているのだ。ウィルソンによれば、いずれの「私」も一般の人間とは全く異なった、自己の内部と社会の実相を見すえる目を持つ反社会的存在なのだ、というのである。だが、はたしてどうか。
 「アウトサイダー」とは「事物を見とおすことのできる孤独者」であり、「病におかされていることを自覚しない文明にあって、自分が病人であることを承知しているただ一人の人間」と、H・G・ウェルズの言も引いてウィルソンは主張する。
 なるほど面白い。カミュの『異邦人』L'Étranger 1942 に触発されたのだろうが「アウトサイダー」と銘打ち、多様な先人の書物と思索を繋ぎ合わせ、強靭な反社会的存在のイメージを形象化して語り上げたのはみごとである。
 しかし、あらためて見れば、『地獄』と『嘔吐』の両作には、三十年のへだたり以上のへだたりがあるのだ。
 むろん共通点は歴然としている。共に都市に仮寓する独身者で三十歳。通常ならば過去より未来に向かい、願望や欲望にまみれているはずの若者である。だが、彼らはホテルや下宿屋住まいの中で、街路や食堂での見聞、部屋での行為──ロカンタンは女の手紙を読み、ロルボン伝を書き、『地獄』の男は壁の穴から隣室を覗き続ける──、そして人間と世界をめぐる思索によって、深刻な懐疑や悲観、絶望にまで陥っていくのだ。
 ウィルソンは、「バルビュスの描く「アウトサイダー」は、「アウトサイダー」の特徴を全部そなえている」と述べている。たしかに、『地獄』には、一般の人間には見えない世の中の実相を見ているという鋭く研ぎすまされた感覚が持続している。それは、市民社会のただ中にあって自分は全く異なる経験をし、あからさまな現実に直面しているのだという思いである。その思いの強さが、何より『地獄』をすぐれた小説としているのだ。
バルビュスは、ウィルソンも言うように、キェルケゴールも意識せず、哲学的な思索にもふけっていない。それがより切実さを増し、都市生活者の孤独が、『マルテの手記』にも通じるすぐれた語りとなって迫ってくる。隣室を覗くという煽情的な設定にもかかわらず、生きようとしてもがく人間の営みの絶望的な感受が、読者を強く動かすのである。
 それにくらべれば、『嘔吐』は小説としてはかなり見劣りがするだろう。すでに遠国で「冒険」をし尽くしたのだと嘯くロカンタンは、あれよあれよという間に意気消沈し、唐突に歴史研究を投げ出し、唯一人近寄ってきた独学者も友となし得ず、執拗にブルジョワ批判を繰り返しながら不労所得での生活を続け、女に捨てられた衝撃のみならず、身の周りを埋める物にさえ身を竦ませてしまうのだ。それこそ常人離れした観念過剰者としては異様でもあろうが、その「病者」の意識にはエリート臭がまじり、あくまでも現世のヒエラルキーに位置をしめた存在とも見えてくるのだ。マルテ、『地獄』の「私」、ムルソーにくらべれば、ロカンタンは観念の厚着をまとっているのである。
 さらに見れば、バルビュスは、ロカンタンが唾棄した独学者とも重なってくる。両者とも、世の実相に揺り動かされた繊細な感受性が強烈な従軍体験によって覆され、ヒューマニズムにめざめたという。目を輝かせて人間を語る様は、図書館の変人と反戦思想家をクラルテで結ぶのである。ニヒルなロカンタンは、その横を侮蔑を浮かべ颯爽と過ぎていく……はずだったのだが、終盤で同情に駆られて独学者を探し回り、しかも一時間後にはケロッとして食堂の女に別れを告げに行く等々、甚だ興ざめな有様なのだ
 しかし、さらに興ざめなのは、あげくの果てに思い浮かべるその作家志望である。

《なかなか決心がつかない。せめて才能があると確信できれば……。しかし、これまでただの一度も──ただの一度も、私はこの種のものを書いたことがない。歴史にかんする論文なら書いた──それもたかが知れている。しかし一冊の本。一篇の小説だ。》

 これは何ともありきたりな終わり方ではないか。この若者はさんざん迷い、己を疑い、女を失い、友も得ず、存在に怯え、街路を彷徨い、ジャズに心動かされ(音楽に癒される者を小馬鹿にしながらも)、「私も試みることができないだろうか」等と呟き、では小説でも書くか、と思い立つに至ったというのだ。我らが近代にも谷崎潤一郎「異端者の悲しみ」、太宰治「思い出」、中野重治『歌の別れ』等々、いくらでも転がっている“青年の出発”である。
 それが凡庸な予定調和とも見えて、私は思わず、「よかったね、坊っちゃん」とでもいいたくなるのだ。せめて、我らが『坊っちやん』のごとく、「清の墓は小日向の養源寺にある。」と、文字通り〈その後〉を断ち切っていたらまだしも、などと。
 かく見てみれば、作品の訴える力(トルストイ曰く感染力)としては、『地獄』さらには『異邦人』の方が、はるかにまさるといえるだろう。何より、『マルテ』も『地獄』も『異邦人』もその中心には〈死〉が据えられているのだ。
『嘔吐』には、命がけの切迫が不足している。ドストエフスキー以来、我々が病的にまで求めるあの深淵らしきものが、一向に見えてこないのである。『失われた時を求めて』のとめどもない流れには、かろうじて通じるのだとしても。
 かくして、私には、ロカンタンは、仰々しく「異邦人」や「アウトサイダー」などと呼ぶまでもない、そこそこ善良と見えるインテリ市民、大学でも、町でも、我々の前を行き交う若者と見えるのだ。市民社会を侮蔑しつつ市民生活を享受し、変わりばえもしない日々を送る頭でっかちの人間、そう、どこの町にも生息する若い大人の一人と。「オタク」という呼び名の方が、「アウトサイダー」よりはふさわしいであろう面々である。むろん彼らもある日ラスコーリニコフに変じないとはいえぬ、ということも含めて、いかにも凡常な現代社会の点景人物と見えるのだ。
 そんなロカンタンの日記に、私はあらためて惹きつけられたのである。そのあれこれの思考を綴った言説の動きは、十分『嘔吐』というノートを価値づけていると思えるのだ。
 では、結局どうなったのか。その評価は如何に、といましばし考えてみたいのである。

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