hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

自装本作成者の未練

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初めて出した本である。1996年2月明治書院刊、4月までに3版を重ね、翌年やまなし文学賞をもらったものだ。

全て自装。グレーと黒白を基調に赤をアクセントにと配置。赤の図柄は口紅を擦りつけたイメージで、パソコンのマウスで描いたもの。帯の文面も熟考等苦心したが、肝心の本文用紙の指定は出来ず、薄弱の紙にされてしまった。

急な重版で改訂もままならず、その後のオンデマンド化の要請も拒まれて、「あとがき」の痛恨のミスもそのままである。
三島由紀夫の名高い言「セルヴァンテスはドン・キホーテではなかった」を、読み込んでいた三島論の著者磯田光一のものと錯覚して書いてしまったのだ。次の如く、お恥ずかしき限りである。

《「セルヴァンテスはドン・キホーテではなかった」と磯田光一が看破したとおり、作者の人間にこそ秘密があるのだ。しかしながら、生身の人間とは何ともやっかいかつ尨大なしろものである。そこで、むしろその書いたものにこそ彼があらわれると信じるとすれば、やはり注目すべきはまず何より「ドン・キホーテ」── 作中の人間であり言葉である他はないだろう。凡常の発見とは、そうしたあらわされた人間像のあれこれを前に、この世のひろがりがふたたび見いだされる経験── すなわち〈読む〉ことを言うのだ。》

やまなし文学賞選考委員の高橋英夫氏は何も言われなかった。爾来27年あれこれ読み散らし、書き散らしてきたわけだが、「等身大の小説論」の目論見は、はたしてどこまで来たのか。

《所詮、〈読み〉は受け身なのだ。しかも、そこにはある種の渇望や無謀さ、さらには現実倒錯までがひそんでいる。願わくは、それらが我をして狂気の淵へと追い立てざらんことを。》帯

さらにどこまで行くのか。後しばし。

#自装 #読み #ドンキホーテ #等身大