hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

団塊は何を考えてきたのか

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photo: エリア・カザン『波止場』

なぜ連日のように、声高な断言によるプロテストが続いているのか。

現実の大きなデモとはならず、明確なヴィジョンも示さず、一過性の野党便乗の動きに過ぎぬとも見える。だが、それがメディアによって繰り返し増幅されることで、政治的な動勢として一定の力を持ちつつあるのである。

諸々の動因があるのだろう。が、何よりそこには貧困と不安を見るべきではないか、と私は考えている。

経済格差による貧困層の拡大はコロナ禍によって加速され、事業継続困難、劣悪な非正規雇用等が否応もなく困窮する人々を生み続けていると見えるのだ。

グローバル経済に晒された弱体化した産業構造、年金と社会保障費増大に対応しきれぬ財政等々は、何より規制緩和もままならぬ政治の不作為の結果によるもの、と批判可能である。

だが今、衣食足り、むしろ豊かな老後を送ると見える人々までが、ともすればこうしたヒステリックで煽情的な動きに賛同するのはなぜなのか。彼らが、羨ましいほどの生活を享受しつつ、それを支えるはずの体制批判に熱をあげるのはーー。

やはり、彼らの中にも、不安や懐疑が根強く存しているのでは、と私には思えるのである。

老残の一人として見れば、60年代以降の既成左翼の失墜と新左翼の崩壊、それに代わり得る本来の「リベラル」の空位により、我々は失望と混迷の数十年を経てきたのである。民主〜立憲民主はその無惨な残骸と成り果てた、と見えるのだ。

厳しく言えば、恵まれた老後を享受する者が、デモ参加までは行かずとも、TV報道やSNS上の政権打倒の声に易き賛同を示すのは、貧困層から見て笑止千万である。彼らは、日々の糧に窮する弱者から「本当にお前の現在を壊してもいいのか」とすごまれて答え得る覚悟を持つべきだろう。それが政治という闘いの場である。

しかしまた、同じく老朽の身からすれば、所詮憂さ晴らしとも見える我が身を傷めぬ"TV左翼"賛同の面々にも、拭い難い不安があり、ひとたびその情念がうねりとなって現出すれば現実を動かす力と変ずるのでは、とも思えるのだ。

だか、いかんせん彼らの"運動"には「連帯」ソリダリテがあるとは到底見えない。さらに多くの生活者に顔向けようとする「友愛」はなおさらなのだ。

何も欧米に倣えというのではない。むしろ足下を見ると、歴史的概念としての「国民国家」の欺瞞を難ずるだけでよいのか、現実の拠り所として一体何が他にあるのか、と改めて問い直すべきでは、と言いたいのである。

戦後八十年を前に、我々に残されてきたものは何か。共に生きてきたはずの人々の間の無惨な空隙を埋めるに何をもってなすべきか、はたして、と問いたいのである。

いずれ去ろうとする者の認識としてこそ、我々はそれを語るべきではないか、と。