hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

古代へのまなざし

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旧稿より 書評・岡野弘彦著『折口信夫伝――その思想と学問』中央公論新社

    「一番末の弟子」であり、折口信夫の晩年に起居を共した著者による伝記である。だが、これは通常の編年体の伝記とは異なり、「行きつもどりつ」しつつ、折口という思想家の大きさを探ろうとするものとなっている。その折口論集とも見えるかたちは、折口信夫の生の足跡をたどろうとする者にはややもどかしさを感じさせるが、折口の抱え込んだ多くの問題をめぐって、何度も立ち止まり問いかけ続ける著者の熱意は充分に伝わってくる。
    著者は学者折口における歌の重要性を説き、旅中の歌にあらわれた強烈な孤独感に注目する。それは、自分を「異種」の子ではないかと感じた少年期から始まる寂寥の深さと、そこで感受された「まれびと」論をはじめとする民俗への洞察を同じ深度において捉えようとするものである「日本人の心の古代」を心中に「ブラック・ホール」のように抱え込んだという折口の生活ぶりを、エピソードを通じて興味深く描く著者は、また、その学問を世俗に向けて啓蒙的に説くことに危惧を感ずる人でもある。
    例えば同門の池田弥三郎の「幻影の古代」という用語に対しては、折口にとって古代は憧憬に充ちた「幻(まぼろし)」ではあっても、現代知識人流の幻影や幻想とは異なるのだと反発する。そうしたこだわりは、敗戦後、民族の危急に際してもなおみずからの神を意識することのない日本人に対する憤りをもって、「神道の宗教化」を追求せんとした折口に対する強い共感へとつながっているのである。
    硫黄島で戦死した養子、春洋を含む、多くの戦死者の「御霊(ごりょう)」を鎮めるのに、明治以来の国家神道の無力を憤り、古代以来の罪障感を伴った宗教的伝統の実現の道を模索した折口は、終始師として接したライバル・柳田国男についても時に「先生には、宗教的情熱がない」ともらす人であったという。
    白秋に「黒衣の旅びと」と呼ばれた詩人学者の悲しみの感受を通して、はるかなる神々の古代へのまなざしをうながす一書である。